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お城を知ろう倶楽部

人は城、武将列伝
人は城、武将列伝
「人は城、人は石垣、人は堀」と言われますように城を知るには武将から、というわけでお好みからご贔屓の武将までその思いの丈を書き綴って下さい★
edited byしまずんば at
第八回 甲斐親直
edited by名乗らん at
裏歴史シリーズ 第一回 豊臣秀頼生存説
恐らく私
かつらを見抜く能力が
人より高い


こんばんわ、名乗らんです






歴史


改めてこの単語の意味をひも解いてみました



Wikipediaには


何かしらの事物が時間的に変遷したありさま、あるいはそれに関する文書や記録のことを言う


とあります




たしかにそうです



しかし
10年以上前のことになりましょうか
ある一冊の本を読んでから
この歴史の意味を
改めて考えさせられることになりました



その本のタイトルは
覚えておりません
地元の市立図書館で借りてきた本ですので
覚えておりません



ネットで調べてみますれば
『秀頼脱出』
といった本があるようですので
それかもしれません




今回は
そんな歴史の闇に葬り去られた説をご紹介





先述の
私が10年以上前に読んだそのタイトル不明の本は
序盤に次のような意味の文章がありました





歴史とは
時代の勝者が作り上げたものである


日本の歴史は
時代の勝者である徳川家が作ったものである


例を一つ挙げますれば
1570年の姉川の戦い


織田・徳川連合軍
浅井・朝倉連合軍
がっつり戦いました


当時
織田家と浅井家はこの戦いを
野村合戦

朝倉家は三田村合戦

徳川家だけが姉川の戦いと
記録しておりました


その後
徳川家の天下となりましたので
姉川の戦いが日本の表歴史に刻まれることになりました



そんな風に
徳川家が歴史を刻みつけていったのです


これは同時に
徳川家にとって都合の悪い事実は
闇に葬り去って
都合のよい歴史を作り上げることができる
そういうことも意味します




その葬り去られた事実の中に
豊臣秀頼が生存していたという
可能性がある



そんなテーマで書かれた一冊です





ネット上を調べるとともに
おぼろげな記憶を呼び起こしてみます




日本の歴史の中では
1615年の大坂夏の陣において
豊臣秀頼は死亡したことになっております



しかし
その死にざまは
徳川家関係者の記録の中でも
様々な形が記録されているそうです



大阪城の山里丸の中で自刃した


大阪城の山里丸の中に追い込んで
外から火をかけて焼き殺した


誰それが討ち取った



等々



また
秀頼の亡骸は見つからなかったそうです




徳川家内でそんなに様々な説があること自体
死んでいないことの裏返しなのではないかと



さらに当時
こんな流行り歌があったそうです



珠(たま)のようなる秀頼様を
鬼のようなる真田が抱いて
引きも引いたり鹿児島へ




真田信繁
木村重成
後藤基次
薄田兼相らが
秀頼を連れて
瀬戸内海を九州へ向かい
薩摩にたどり着いたらしい



薩摩には
それを証明するかのように
様々な秀頼伝説や
秀頼の墓などがあるらしい



さらに
薩摩には
秀頼が落ち延びてきたあとにできた子供の
末裔が今も存在するらしい



秀頼は谷山村という所
信繁は雪丸(ゆんまい)という所
基次は耳原(みんばい)という所
重成は加治木浦という所


それぞれが暮らしていた場所も伝説として残っているらしい



さらに
一枚のメモ書き
当時の人が書き残したメモ書き


別に後世の人に書き残そうとしたようなものではなく
ただ単に話に聞いたことを何気に書いた程度のもの


それだけに信憑性がなんとなくあるように感じる



そんなメモ書きに



島原の乱の天草四郎時貞は
豊臣秀頼の子であり
本当の名前は
羽柴天四郎秀綱(はしばてんしろうひでつな)であると
記されていたらしい



天四郎
一文字加えると
天草四郎


しかもこの
天草四郎が秀頼の子であるということは
島原の乱を記録した
幕府の書物にも書かれているらしい



つまり
天草四郎が秀頼の子であるということは
幕府側も知っていたことになる


つまり
秀頼が薩摩に逃げたことを
幕府は知っていたことになる





島原の乱は
3万7千の一揆軍に対し
12万の幕府軍が襲い掛かり
幕府軍に寝返った1人以外
全員が殺されました


そこまでしなくてもいいような
徹底した惨殺ぶり


その事実も
豊臣の匂いを完全に消し去るためなのではないか



さらに
一揆軍は3万7千人で
4か月持ちこたえたらしい


元々島原の乱は
農民の酷使や
過重な年貢負担
さらに飢饉により
領民の怒りが爆発したものだそうです



3万7千人が
4か月も持ちこたえるには
相当な軍資金
相当な食糧が必要となります



生きるのがぎりぎりな領民の寄せ集めの3万7千人が
4か月も持ちこたえるのに必要な
相当な軍資金
相当な食糧を
どうやって調達できたのでしょう



これも
天草四郎が秀頼の子である
豊臣秀吉の孫である
そのネームバリューで調達したのか
はたまた秀頼が大阪城から持ってきていたのか







日本には
源義経=チンギスハン説など
とんでもない伝説が存在しますが
この
秀頼生存説
天草四郎は秀頼の子であるという説
これらは伝説などと簡単に片づけるには
少々無理があるような気がします





今日も一日お疲れ様でした
edited by名乗らん at
第七回 太原雪斎
もう少し・・・
もう少し時間をくれ・・・



あと少し・・・
あと少しで・・・




武井咲の読み方を覚えられそうなんだ・・・





こんばんわ、名乗らんです



今回取り上げますのは


太原雪斎(たいげんせっさい)(1496~1555)(太原崇孚(たいげんそうふ))



名前を見てもわかりますように
お坊さんです


お坊さんではありますが
戦国武将でもあります



太原雪斎は今川家家臣の
庵原政盛(いはらまさもり)の子として産まれました



雪斎の兄とも甥とも言われる庵原忠胤(いはらただたね)は
山本晴幸(通称:勘助)の大叔父と伝えられています


当初は九英承菊(きゅうえいしょうぎく)と名乗り
地元駿河や京都で修業に明け暮れておりました


この頃から非常に頭がよく
将来が楽しみだという噂が立っておりました


その噂を聞きつけた
今川氏親(いまがわうじちか)は
五男の芳菊丸(ほうぎくまる)の教育係として
駿河に呼び戻しました


この頃雪斎30代半ば


九英承菊は太原雪斎と名乗りを改め
芳菊丸は栴岳承芳(ばいがくしょうほう)と名乗り
一緒に修業三昧を送っておりました



1536年
栴岳承芳の兄で今川家当主の
今川氏輝(いまがわうじてる)と
氏輝の弟の彦五郎(ひこごろう)が同じ日に死亡するという
謎多き出来事がありました



氏輝はまだ24歳
彦五郎の没年は不明



この二人の同日の死は
どんな文献にもただ死んだということしか記されておりません


さらに彦五郎の名は今川家の記録には一切なく
今川家以外の文献にしか出てきません


彦五郎の父である今川氏親の葬儀にも登場しません



彦五郎は実は兄氏輝(通称:五郎)と同一人物とも言われております


氏輝は生まれつき病弱だったようで
氏輝一人が死んだだけかもしれません



とにもかくにも
今川家当主を決めなければいけません



これに名乗りを上げたのが
今川氏親の三男玄広恵探(げんこうえたん、今川良真(いまがわよしざね))
今川氏親の五男栴岳承芳


栴岳承芳は師である太原雪斎と
実母であり今川氏親の正室である寿桂尼(じゅけいに)が付きます


玄広恵探が側室の子であったこと
正室が付いたこと
寿桂尼が女戦国大名だとか尼御台(あまみだい)と呼ばれるほど
かなりしゃしゃり出たがるタイプだったこと
太原雪斎の裏工作で玄広恵探をすっかり孤立させたこと
などにより
栴岳承芳が勝利し
名を今川義元(いまがわよしもと)と改め
今川家を継承しました


この内輪もめを
花倉の乱といいます


これにより太原雪斎は
義元の厚い信頼を受け
政治、軍事、外交と大車輪の活躍を見せるようになります



特に対織田戦では
総大将として常に優勢に戦いを進め
信長の兄である織田信広(おだのぶひろ)を捕らえ
織田家に騙し取られていた松平竹千代(まつだいらたけちよ=徳川家康)と交換し
竹千代を取り戻すことに成功
このとき取り戻していなかったら
後の江戸幕府はなかったかもしれませんね


また
今川家の法律とも言うべき
今川仮名目録(いまがわかなもくろく)
これに21カ条の追加条文を入れました


さらに
僧であることから
寺社政策や商業政策にも貢献し
今川家は最盛期を迎えます



そして最大の大仕事が
今川家
武田家
北条家を
婚姻で結び付ける
甲相駿三国同盟(こうそうさんさんごくどうめい)


今川家は西の織田家を潰したい
武田家は北の信濃諸豪族や上杉謙信をどうにかしたい
北条家は東の関東諸豪族をどうにかしたい



これらに共通するのが
三国がお互いの背後に存在するということ


この三国がお互いの背後を味方につけ
本来の目的に集中する
文句のつけようのない同盟です



この三国同盟締結の翌年
1555年
太原雪斎は60年の生涯を閉じます


武田家の甲陽軍鑑(こうようぐんかん)には
山本晴幸の言葉として
今川家は太原雪斎がいないと成り立たない家と言われており
また
太原雪斎がもう少し長生きしていれば
1560年の桶狭間の戦いにおける
今川義元の討死もなかったのではないかとも言われたり
太原雪斎の死により今川家の衰退は始まったとも言われております


桶狭間での今川義元の討死がなければ
織田家は潰され
その後はどうなっていたか
そんなことを考えるのも
歴史のロマンです



今日も一日お疲れ様でした
edited by名乗らん at
第六回 諱(いみな)と偏諱(へんき)

あけましておめでとうございます

 

 

元旦に届いた年賀状は

カーコンビニ倶楽部から届いた

一通でした

 

 

鳥がクラッシュしてカーコンビニ倶楽部

COCO壱のバイト高校生におかま彫られてカーコンビニ倶楽部

 

 

そのおかげで0通をまぬがれました

ありがとうございます

 

 


こんばんわ、名乗らんです

 


今回は特定の人物ではなく

前回でも少々触れた
歴史人の名前にスポットを当てて
お勉強していきましょう

 


日本史が嫌いという方と
出会ったことはみなさんあるでしょう

 

 

そんな嫌いな方の言い分としては

『名前が似ててややこしい』

『どれがだれかわからない』

 


といったことを理由の一つに挙げる方がおられます

 

 

鎌倉幕府将軍でいうと

源頼朝
源頼家
源実朝

んむ
確かに似通った名前

 

 

なぜ歴史人の
親子兄弟は
名前が似ているのか

 

 

歴史人と大きいくくりで言うと語弊があるかもしれませんので
ここはやはり私の専門の
戦国人で語っていきます

 

 

 

戦国人の家には
“通字(つうじ)”というのがあります

 


その家に生まれた人間には
ある特定の文字を名前に入れる
その文字を通字と言います


 

例えば
織田家で申しますれば

織田信定(おだのぶさだ)
織田信秀(おだのぶひで)
織田信長(おだのぶなが)
織田信忠(おだのぶただ)

この名前の羅列には
“信”の字が入っていますね
この“信”が通字です

 


通字を入れない場合もあります


 

上述の織田信秀の子供には

織田秀孝(おだひでたか)
織田秀成(おだひでなり)
織田長益(おだながます)
などがいたり

織田信長の子供には

織田勝長(おだかつなが)
織田長次(おだながつぐ)
などがいたり


 

例外もありますが
多くは通字を入れています

 

 

何気に挙げた織田勝長

織田信長の五男です

 

 

この織田勝長は

まだ坊丸(ぼうまる)と名乗っていた幼少時代

武田家の人質に出されました

 

 

その武田家にいるときに

元服し勝長と名乗ったようです

 

 

武田勝頼(たけだかつより)の“勝”を上に

織田信長の”長”を下に

 

 

織田家にとって極めて屈辱的な名前です

 

 

のちに織田家に戻り

犬山城主などを経て

本能寺の変で兄である織田信忠とともに

二条城で散りますが

織田家に戻ってからは

この屈辱的な名前を捨て

織田家の通字である“信”を使い

織田信房(おだのぶふさ)と

名乗っていたようです

 

 

 

また通字は一家に一文字でなく
複数ある場合もあります

 

 


薩摩の名族島津家


こちらは初代当主が島津忠久(しまづただひさ)であったので
“忠”と“久”が通字です


島津忠良(しまづただよし)
島津貴久(しまづたかひさ)


 

このように
“忠”を名前の前に入れるか
“久”を名前の下に入れるか
といったパターンが多い

 

 

この通字
名前の上に入れるか
下に入れるか
これでも別のお話ができます


 

上述の織田家では
名前の上に“信”の通字を入れていますね

 


名前の下に通字を入れる例として
伊達家を挙げます


 

伊達尚宗(だてひさむね)
伊達稙宗(だてたねむね)
伊達晴宗(だてはるむね)
伊達輝宗(だててるむね)


 

名前の下に入れている“宗”
これが通字ですね

 


織田家での通字以外の文字は
いわば何でもいいの適当と言える文字
でも
伊達家の場合は違います


 

上述の四人の通字以外の文字は
偏諱(へんき)と言われる文字です


 

偏諱
これは目上の人から自分の名前の一文字を
目下の人に与えた文字のことを言います


 

上述の伊達家の四人は
室町幕府将軍から偏諱を受けております

伊達尚宗は9代将軍足利義尚(あしかがよしひさ)から
伊達稙宗は10代将軍足利義稙(あしかがよしたね)から
伊達晴宗は12代将軍足利義晴(あしかがよしはる)から
伊達輝宗は13代将軍足利義輝(あしかがよしてる)から


 

室町幕府将軍は
実権こそございませんが
やはり武家のトップです
名目上は目上の人です
そんな将軍から代々偏諱を受けていました


 

ちなみに
伊達輝宗の息子の
伊達政宗(だてまさむね)


この政宗が元服して
諱をつけるときには
室町幕府は
もう限界ヘロヘロ状態で滅亡寸前

 


そんな将軍から偏諱など要らんと
お父さんの輝宗は判断し
伊達家中興の祖と言われる
伊達家9代当主伊達政宗の名前をそのまま息子に与えました

 


政宗の息子の伊達忠宗(だてただむね)以降の仙台伊達家は
江戸幕府将軍から代々偏諱を受けています

 

 

そんな偏諱
目上の人からもらうものですから
必ず名前の上につけなければいけません
下につけるなんて無礼です


 

安土桃山時代の武将に
“秀”が名前の前についている武将がたくさんいます

小早川秀秋(こばやかわひであき)
仙石秀久(せんごくひでひさ)
宇喜多秀家(うきたひでいえ)
蒲生秀行(がもうひでいえ)
堀秀治(ほりひではる)
などなど

これは
豊臣秀吉や豊臣秀頼からの偏諱です

 

 

この豊臣秀吉の名前に
あるエピソードがあります


 

秀吉が織田家に仕える前の放浪時代
南近江の六角義秀(ろっかくよしひで)に仕えていて
主君から“秀”の偏諱をうけて
元吉と名乗っていたのを秀吉に改めたというお話


 

この六角義秀は他にも
斎藤秀龍(さいとうひでたつ=斎藤道三)
明智光秀(あけちみつひで)
にも“秀”を与えたという説があります


 

しかし
六角義秀は実在が疑われております


まぁそんな説があるってだけの話

 

 

豊臣家でもう一つ


 

関白になった豊臣秀吉
秀吉の次に関白になったのは
秀吉のお姉さんの子で
秀吉の養子となった
豊臣秀次(とよとみひでつぐ)

 


この秀次も偏諱をいくつか与えているのですが
秀吉や秀頼が“秀”を与えてるのに対し
秀次は
“次”を与えています

 


田中吉次(たなかよしつぐ)
織田長次(おだながつぐ)
増田盛次(ましたもりつぐ)


 

どういうわけか権力者である関白からもらった
ありがたい偏諱である“次”が
名前の下についています


 

私なりに解釈するならば
恐らく
自分はただ秀吉の姉から産まれただけの
なんの実力もない存在
関白なんて器ではない


 

そんな自分からもらう偏諱なんて大したものじゃない
だから名前の下につけてくれ


 

なんてことを指示したのではないかと考えます

 

 

 

武田家の家臣に
“虎”の文字が名前の前についている武将がたくさんいます

秋山虎繁(あきやまとらしげ)
浅利虎在(あさりとらあり)
甘利虎泰(あまりとらやす)
などなど
Wikipediaにあるだけでも30人ぐらいいます

 


これは
武田信玄の先代当主である
武田信虎(たけだのぶとら)が
偏諱を与えまくったからです


 

武田家には
上述の武田信虎の他

武田信繁(たけだのぶしげ)
武田信廉(たけだのぶかど)
などなど


 

もちろん“信”が通字


ここで登場
武田信玄
元々は
武田晴信(たけだはるのぶ)って名前です


 

通字の“信”が下についています


これは“晴”が
室町幕府12代将軍の足利義晴からの偏諱だからです

 

 

武田家には
山本勘助って名軍師がいます


諱は山本晴幸(やまもとはるゆき)


 

この“晴”の字が主君である武田晴信からの偏諱だと
ドヤ顔で言う方がおられるようですが
私はそれはどうかなと思います


 

上述の通り
“晴”の字は将軍からもらった偏諱です


 

そんな名目上はありがたいものを
家臣に偏諱としてさらに与えるなんて
ありえないと思うのです


 

たぶん晴幸の“晴”は
偶然一緒だったってだけじゃないでしょうか


 

でもそういう場合は遠慮して改名するのが多いのですが
晴幸はそのまま


 

ってか
本人が本当に晴幸を名乗っていたのかも微妙
むしろ
実在したかも微妙


最近は実在説がつよくなっているらしい

 


 

もう一家ご紹介


中国地方から毛利家
英雄毛利元就(もうりもとなり)の毛利家


まずは歴代当主の一部

毛利煕元(もうりひろもと)
毛利豊元(もうりとよもと)
毛利弘元(もうりひろもと)
毛利興元(もうりおきもと)
毛利隆元(もうりたかもと)


 

下に通字である“元”をつけるパターン
前の文字はすべて偏諱です


 

毛利家は
元就が出てくるまでは弱小勢力で
常にどこかの大勢力に属していないと生き残れない程度の
ちっぽけな存在


 

その属しているときの主君から
代々偏諱を受けています

 

 

毛利煕元は当時の主君である山名時煕(やまなときひろ)から
毛利豊元は当時の主君である山名是豊(やまなこれとよ)から
毛利弘元は当時の主君である大内義弘(おおうちよしひろ)から
毛利興元は当時の主君である大内義興(おおうちよしおき)から
毛利隆元は当時の主君である大内義隆(おおうちよしたか)から


 

ここまでは上述の伊達家のパターンと同じなのですが
毛利家の場合はちょっと特殊で
当主の二男以降の息子たちは
主君である長兄から“元”を偏諱として受け
“元”を名前の前につけていたのです


 

毛利弘元の二男は
兄である毛利興元から偏諱を受けた
毛利元就(もうりもとなり)


 

毛利元就の長男は
大内義隆から偏諱を受けた
毛利隆元

毛利元就の二男は
兄である毛利隆元から偏諱を受けた
毛利元春(もうりもとはる=吉川元春)
などなど


 

まぁ
必ずそういう形であったかというと
時と場合によりまして


 

毛利元就の孫の毛利輝元(もうりてるもと)
この“輝”は室町幕府13代将軍足利義輝(あしかがよしてる)からの偏諱


 

この輝元の子に
毛利秀就(もうりひでなり)
毛利就隆(もうりなりたか)
という兄弟がいます


 

兄秀就は
豊臣秀頼からの偏諱である“秀”と
毛利家では神ぐらいの扱いを受けている毛利元就の“就”で構成されています


 

弟就隆は
兄秀就の“就”と
元就の子で就隆の祖父である毛利隆元の“隆”で構成されているそうです

 

 


もらった偏諱をさらに与えてますね
あるんですねそういうの


 

豊臣秀頼__毛利秀就_毛利就隆
毛利元就_|

 

大内義隆_毛利隆元__毛利就隆
毛利元就_毛利秀就_|

 

 

何気ない名前でも
このように非常に意味深いものでした

 

 

 

語ればきりがないので
このへんで

 

 

 

今日も一日お疲れ様でした

edited by名乗らん at
第五回 黒田孝高

来年はうま年
私は年男

 


ですので来年
24歳になります

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

嘘ですごめんなさい

 

 

 

 

最近の悩み
白髪

 

 

 

 


こんばんわ、名乗らんです

 

 

今回取り上げるのは

 

黒田孝高(くろだよしたか 1546~1604 黒田官兵衛(くろだかんべえ)黒田如水(くろだじょすい))

 

 

 

 

きたるべく2014年大河ドラマ『軍師官兵衛』
これに備えて予習しましょうよみなさん

 

 

 

今回取り上げるに至ったのは
予習もありますが
なんともづんば部長があまりこの方が好みでないということ

 

 

 

 

どうにもこうにも
あくどいイメージがあるそうです

 

 

 

 

たしかに
共に羽柴秀吉を支えた竹中重治(たけなかしげはる)
通称竹中半兵衛(たけなかはんべえ)に比べると
白と黒に色分けされるのは百も承知です

 

 

 

でもそれはあくまで
竹中重治があまりにも無欲すぎる
その対比のためです

 

 

 

戦国に生きとし生けるものは皆
天下を目指す

 

 


自身が天下を目指す
主君を天下に就ける
その思いが誰にもあるのです
ないといけないのです

 

 

竹中重治にはその思いが希薄で
黒田孝高にはその思いが濃厚だっただけ

 

 

なにも黒田孝高は悪者でも何でもない
むしろ
戦国武将として
当たり前のことを当たり前に実行しただけです
当たり前のことを当たり前に実行する能力があっただけです

 

 

そんな能力以外の人間的な部分でも

非常に温かい人物だったのですよ

 

 

 


そんな黒田孝高の偉業をご紹介

 

 

 

黒田氏は名族京極氏の
京極宗満(きょうごくむねみつ)が
近江の黒田村に領土を持ち
黒田を姓にしたことから始まります

 

 

その末裔の黒田重隆(くろだしげたか)が播磨に移り住み
家に代々伝わる目薬の販売を始め
それにより結構な財力を有したことから発展します

 


その後
播磨の小寺政職(こでらまさもと)に仕え
姫路城代に任じられます

 


姫路城が大河ドラマで沸き立っているのは
ここが原点です

 


大河ドラマでは竜雷太さんが演じます

 


重隆の子の黒田職隆(くろだもとたか)は
主君小寺政職の養女を娶り
小寺姓を与えられ
家老として仕えました

 

 

この人がなかなか慈悲深い人で
城下に百間長屋を建てて
貧しい者や下級武士などを住まわせて
養っていたそうです

 

 

その中に
後に孝高の忠臣となる
黒田二十四将が含まれていたそうです

 

 

大河ドラマでは柴田恭兵さんが演じます

 

 

 

黒田職隆の子が
今回取り上げる黒田孝高です

 

 

なお
しばらくは父同様に小寺姓を名乗っていた孝高ですが
黒田孝高で通させていただきます

 

 

 

孝高14歳の頃
母親を亡くしました

 

 

ショックを受けた孝高は
すっかり引きこもり
ひたすら書物を読み漁りました

 

 

この時に得た知識が
後の大軍師を作り上げることになります

 

 

22歳の頃に
父の隠居により
家老職と家督と姫路城代を引き継ぎます

 

 

24歳の時
姫路城は中国地方の出入り口と重要な地点なので
周りから様々な敵が攻め込んできます

 


この時は赤松正秀(あかまつまさひで)

 


両軍にらみ合いが続いておる中
急きょ赤松軍が夜襲を仕掛けてきて
黒田軍はダメージを受けました

 

 

近臣は
明日の朝には仕返ししてやりましょう
と進言しますが

 


いや
敵は今の戦いに勝って油断してるだろう
今から攻めるぞっ!!

 

 

ぼこぼこにした黒田軍がいきなり背後から襲い掛かってきて
赤松軍は這う這うの体で退却していきました

 


1575年
孝高30歳の時に
織田信長が武田軍を長篠の戦で破ります

 

 

当時無敵と言われていた武田騎馬軍団
それを新兵器である鉄砲で粉々に粉砕

 


孝高は織田信長を高く評価します

 

 

そんな織田信長が
中国地方へ進出の気配を見せると
孝高は
主君である小寺政職に
信長への臣従を強く進言します

 

 

織田家臣となった32歳の孝高に
毛利軍が瀬戸内海を船で攻めてきました
その数5,000
一方の黒田軍は500


 

桁違いの大軍です

 

 

 

この難局にも平然と


 

『大軍なんてのは
ちょっと驚かせて
一部が乱れたらもうぐだぐだになる』

 



平然とする孝高

 

 

 

ゆっくり毛利軍に近づいていきます

 

 

 

これを見た毛利軍
相手は大した数じゃない
蹴散らしてまえー
と意気上がりますが

 

 

 

ん?

 

 

 

黒田軍の背後には
大量の旗指物や軍旗がついてきます

 

 

やばい
織田軍もおるぞっ
織田軍となるとその数はうちよりはるかに勝る
逃げるぞー

 


戦わずして毛利軍は退却

 

 

この旗指物は
地元民にただ旗を振ってついてきてくれといった
孝高の策だったのです

 

 

 

織田家家臣となった孝高は
羽柴秀吉に仕え
姫路城を差出し
竹中重治と共に
様々な献策をし
数々の戦いを勝利に導きます

 


33歳の時
荒木村重(あらきむらしげ)が
突如織田信長に対して
謀反を起こしました

 

 

しかもこの謀反に
主君の小寺政職も呼応しました

 

 

このままでは
小寺家が潰されてしまいます
どうにかしないと

 


織田信長の家臣として
摂津有岡城を治めていた荒木村重

 

 

その荒木村重と旧知の仲だったのが黒田孝高

 

 

そんなこんなで
単身有岡城に乗り込み
荒木村重を説得にかかります

 

 

しかし説得に失敗するどころか
地下牢にぶち込まれてしまいました

 

 

そのまま
大した食事も与えられず
岩から湧き出る水をすすり
時にはねずみさえ食べ
陽も当たらない薄暗く湿った地下牢の中で
一年間を過ごしました

 

 

きっと助かる
村重の謀反が成功するのは万に一つもない
必ず城は落ちる
その信念

 

 

そして
小さな窓から見える藤の花
この藤の花を心の拠り所とし
必死に耐えておりました

 

後に黒田家の家紋は
藤巴というものになります

 

これは
地下牢で生きる勇気を与えてくれた藤の花から取ったと言われております

 

 

黒田家家紋 藤巴

 

 

一方織田信長
黒田孝高が有岡城に入ったっきり戻ってこないことを聞くと
主君小寺職隆と共にわしを裏切ったかと
激おこぷんぷん丸

 

 

孝高の嫡男で
人質として秀吉の元にいた松寿丸(しょうじゅまる)を殺すよう
秀吉に指示します

 

 

孝高が裏切ったとは全く思えない
しかし
お屋形様の命令に逆らうと
こっちの命がない

 

 

秀吉は
松寿丸を預かっていた竹中重治に
斬るように命じます

 

 

重治は
秀吉以上に孝高の無罪を信じていました

 

 

松寿丸を斬りましたと
嘘の報告だけをして
そのまま居城の菩提山城に匿います

 


やがて
有岡城は陥落し
長い間
陽に当たっていなかったので
体は蝋のような色になり
皮膚病に侵され
足も不自由になった
孝高が発見され救出されました

 

 

そのことを知った織田信長
焦ります
さすがの織田信長も
焦ります

 

 

しまった
やっちまったよ
裏切り者の人質を殺したと思ったら
忠義溢れる正義の男の跡取りを殺っちまったよ

 

 

しかし
松寿丸は生きていました
黒田孝高は当然のこと
信長も竹中重治の深慮遠謀には深く感謝しました

 

 

しかしその竹中重治
その数か月前に
わずか36年の短い生涯を閉じていました

 

 

孝高は
感謝の気持ちを忘れないために
竹中家の家紋を用い
重治の子の竹中重門(たけなかしげかど)の
烏帽子親になり
竹中家の子孫を代々重用しました

 

 

戦国史を彩る美談のひとつとして
よく語られる逸話ですね

 

 

この後
謀反に加わった主君小寺政職と同じ姓を避け
元の黒田孝高に戻しました

 

 

なお
小寺政職は追放され毛利家へ逃れましたが
小寺政職の子の小寺氏職(こでらうじもと)は
黒田孝高に養われ
小寺家の取り潰しは逃れました

 


小寺氏職とその子孫は
代々黒田家の福岡藩に仕えました

 

 

自分を死のギリギリまで追い込んだのは

小寺政職が原因のひとつです

そんな悪の元凶の子供を

大事に育て子孫も大事にしたのです

 

 

黒田孝高の義理深さ
人情味がにじみ出るエピソードです

 

 

 

36歳の時
鳥取城攻め

 


鳥取の渇え殺しと言われる
凄惨な策を立てたのは
黒田孝高です

 

 

城を軍兵で囲み
場内の食糧が尽きるのを待つ兵糧攻め

 

 

鳥取城攻めでは
それだけでは飽き足らず
鳥取城がある因幡の米を
通常相場の倍で買ってやろうと大盤振る舞い

 

 

次々に因幡領内の米が秀吉の元に集まります


 

そんなこともあり
鳥取城にはわずか20日分の食料しかなく
植物や牛馬など食べれるものは何でも食べ
しまいには
餓死した者の人肉を食べるありさま
脳味噌はけっこう美味しかったようで
頭部を奪い合うことさえあったそうです

 

 

まさしく地獄絵図


 

お食事中の方おめでとう

 


 

37歳の時
備中高松城の水攻め
これも孝高による献策です

 

 

最初はなかなか水をせき止められなかったのですが
孝高が
船に土嚢を乗せて
その船に穴を開けて沈めようと検索し
見事に水をせき止めました

 


同じ年
1582年


 

 

本能寺の変

 

 


織田信長の死


 

 

この事実を知った秀吉は
大いに取り乱します

 

 

 

そんな秀吉に孝高は

 

 

 

 

『運が回ってまいりましたな』

 

 

 


そっとつぶやく

 

 

この言葉に秀吉は落ち着きを取り戻し
冷静な判断を取り戻すが
同時に

 

 

 

なにこいつ・・・冷静すぎるやん・・・なんかちょっと怖いな・・・

 

 

 

孝高の智謀に恐れさえ抱き始めます

 

 

 

中国大返しを成功させ
明智光秀を山崎の戦いで滅ぼし
秀吉の天下人の座にどんどん近づけていきます

 


 

40歳
四国攻め

 

 

讃岐に
長曾我部元親(ちょうそかべもとちか)が築いた植田城という城がありました


 

元親の策としては
植田城には囮の兵を置き
手前の狭い道に敵を誘い込み
隣国阿波から元親が敵の背後に回り込み
挟み撃ちをしようとしておりました

 


孝高は
これらを
城を下見してすべて見破り
讃岐を放置して
元親がいる阿波に攻め込みました

 

 

元親は
他の奴なら間違いなく成功していたのに
まさか黒田孝高が下見するとは
なんとも残念だよとこぼしたとか

 

 

四国、九州を平定した秀吉は
孝高に豊前国内6群
12万石を与え
中津城を築城しました

 

 

佐々成政が治める肥後で一機が勃発
孝高はその鎮圧に向かいますが
その隙に
城井鎮房(きいしげふさ)が反抗しました

 


城井鎮房は怪力無双であったとかで
留守を預かっていた
息子黒田長政(くろだながまさ=松寿丸)はなかなか鎮圧できません

 

 

仕方なく孝高は
鎮房の娘を長政に嫁がせることで和解しようとします

 

 

鎮房は近臣と共に
のこのこ中津城に赴き
そこで
黒田家にことごとく斬り殺されました

 

 

それからというもの
中津城内に鎮房の亡霊が現れるようになりました


 

孝高は
さすがにだまし討ちとはばつが悪かったようで
中津城内に城井神社を建て
鎮房の霊を祀りました

 

 

この城井神社は
福岡城にも建てられました

 

 

城井鎮房についてきていた家臣の一部は
合元寺というところで全滅したのですが
この寺に飛び散った血痕が
いくら拭いても落ちないので
仕方なく壁をすべて赤に塗りなおしたそうな

 

 

44歳で隠居し
家督を息子長政に譲ります

 

 

 

秀吉が家臣との雑談で

『わしがいなくなったら天下を取るのは誰だと思う』

なんて話を始めます

 

 

家臣は
徳川家康や前田利家の名を挙げますが
秀吉は


 

『わかっとらんなーおまえらは
次に天下を取るのは黒田官兵衛ぞ
あいつがその気になれば
わしがおる間にでも天下を取るだろう』

 

 

これを伝え聞いた孝高は強いショックを受けます

 

 

そんな風に思われてたのか・・・
わしはただただ殿のために一心に仕えていたのに・・・

 

 

秀吉が自分を警戒している
それゆえに隠居し
二心ないことを現したのです

 

 

隠居したといっても
ちゃんと後見はしていましたので
日々をなんとなくぼーっと過ごしていたわけではありません

 

 

しかし隠居してから
屋敷に身分の低いものの子供たちを呼んで
たっぷり遊ばせていたそうです


 

いかんせん子供ですので
傍若無人にお構いなしに
遊び放題遊んでおりました


 

時には
泥まみれの足のまま屋敷に上がり込んだり
障子をぼろぼろにしたり


 

それでも孝高は決して怒ることはなく
のびのび遊ばせていたそうです


 

様々な歴史小説を執筆した
海音寺潮五郎さんは
織田信長
豊臣秀吉
徳川家康
いわゆる三英傑よりも
人物としては黒田孝高の方が立派だと評したそうです


 

また
家臣に対しても極力怒ることはなく
悟らせるようにじっくり言い聞かせることを心がけていました


 

しかしどうしてもきつく言わなければいけないときはきつく言いました
でもその後は
簡単な仕事を与え
それをちゃんとこなしたらちゃんと褒めて
後腐れのないようにしていたとか


 

人の上に立つ人は
こういう先人の知恵を活かすべき

 

 

話を戻して
51歳の時
朝鮮出兵


 

この時は
石田三成などと一悶着あり
勝手に帰国しました


 

やってらんねーぜ

 

 

これに秀吉は怒り
蟄居謹慎を言いつけられます

 

 

同年
秀吉がいた伏見に大地震が起こります

 

 

伏見城は倒壊

 

 

この時
同じく蟄居謹慎中の
加藤清正と孝高が伏見に駆けつけます

 

 

秀吉は清正に対しては

『よー来てくれたのー
わしは大丈夫じゃー』


と温かい言葉をかけますが
孝高には


『わしが死なんで残念やったのぉ』


 

と冷たくあしらいます

 

 

 

切ない孝高

 


 

53歳の時
1598年
秀吉逝去

 

 

長年共に走ってきた秀吉の死
これにも孝高は冷静でした

 


吉川広家に送った書状には

 

 

『こんな時は大きな戦が必ず起こる
備えを充分に』

 

 

と語っております

 

 

55歳の時
1600年
関ヶ原の戦い

 

 

孝高が予言したとおり
日本を二分する大決戦です

 

 

孝高の考えは

 

 

この戦いは半年や一年はかかる大戦となるだろう
その後徳川方が勝つ
しかし徳川方のダメージも相当なものだろう
そのぼろぼろの徳川方に攻めかかれば
わしの天下じゃ


 

でもこればれたらまずいな
よし
長政を徳川方につけよう
黒田家は徳川の味方である事を示すのだ

 

 

まさしく最後の大博打


 

幸い九州の諸将は兵のほとんどを関ヶ原に送っている
しかし黒田家も
長政と一緒に兵を送っていて
隠居の孝高には兵がいない

 

 

ならば
元々ケチな性格で金銀財宝をため込んでいた孝高
これをすべて解放し
大量の兵を雇い入れます

 

 

そして九州の諸城に襲い掛かります


 

兵の少ない城
孝高の知略
瞬く間に九州は黒田色に染まっていきます

 

 

残すは薩摩の島津家だけとなった時に
関ヶ原の戦いが終わったことを告げられます

 

 

半年や一年はかかるであろう関ヶ原の戦いは
たった半日で終わったのです

 

 

 

なんてこった・・・
なにがあったのだ・・・

 

 

 

関ヶ原から長政が戻ってきました

 

 

長政は興奮気味に

 

 

『西軍の小早川秀秋を私が寝返らせたのです!
それで戦局は大きく東軍に傾き
東軍の大勝利に終わりました!!』


『徳川様は両手で私の手を取り
子々孫々まで黒田家を大事にするぞと
感謝されました!!』

 

 

 


お前か・・・
お前のせいで天下を取りそこなったのか・・・

 

 

 


『長政・・・
徳川様はお前のどっちの手を取られたのだ?』

 

 

『右手です』

 

 


『お前の左手は何をしておったのだ・・・』

 

 


 

 

すっかり天下への夢を諦めた孝高

 

 

晩年は
今まで大事にしてきた家臣たちに冷たく当たります

 

 

家臣たちの怒りは凄まじく

 


 

 

『大殿も耄碌しなすったのぉ!!』

 

 

 

これを聞いた長政は


 

『父上、最近おかしいですよ
家臣たちが怒ってますよ』

 

 

『長政よ
わしの時代はもう終わりじゃ
これからはお前の時代じゃ
いつまでもわしのことを思っていても仕方ない
家臣たちの心をお前に向けるためにやってることじゃ』

 


また

 


『わしは3月20日辰の刻にあの世に行く』

 

自らの没日を予言し
その予言通り
1604年3月20日辰の刻
旅立ちました

 

 

 

意外な人が

黒田官兵衛について熱く語っています

 

 

 

http://youtu.be/J6zUh4VGOVs

 

 

 

 

 

 

余談です


 

私はこの文字列において
基本的に
黒田孝高と表記しました

 

 

世間的には黒田官兵衛と表現した方がわかりやすいのは百も承知

 

 

江戸時代までは
武士には

諱(いみな)
通称

二つの名前があります

 

 

孝高は諱
官兵衛は通称


 

諱は
いわゆる本名で
忌み名とも書きます


 

忌み嫌うの忌みです

 

 

 

通常呼び合うときは
通称か官職名で呼び合い
諱は使いません


 

忠臣蔵の
大石内蔵助の
諱(本名)は
良雄(よしたけ)

内蔵助は官職名


 

石田三成が
治部と言われるのも
治部少輔(じぶしょうゆう)という官職に就いていたから
そう呼ばれます

 

 

通常
武家の人は


 

幼名がつけられ
元服したら
通称と諱を与えられ
官職に就いたら
通称を官職名にして
出家したら法名が諱になります

 

 

黒田孝高で言うと
幼名:万吉
通称:官兵衛
諱:孝高
官職名:勘解由次官(かげゆじかん)
法名:如水

 


武田信玄で言うと
幼名兼通称:太郎
諱:晴信
官職名:大膳大夫
法名:信玄


 

織田信長で言うと
幼名:吉法師
通称:三郎
諱:信長
官職名:上総介、右大将、右大臣など
法名:なし

 

 

諱で呼んでいいのは
主君が家臣を呼ぶとき
親が子を呼ぶとき
現代人が歴史上の人物を呼ぶとき


 

当時は
目上の人が目下の人を呼ぶ時だけです諱は

 

 

ですのでドラマや映画などで
例えば羽柴秀吉が
織田信長に対して


 

『信長様』


 

なんて呼ぶことはありえないのです
そんなことを口走ったら
ぼっこぼこにされても文句が言えませんし
斬られても仕方ないことです


 

お屋形様
もしくは
殿

 


が正解

 


豊臣秀吉に対して
秀吉様とは言いません

関白様
太閤様

が正解

 

 

これらを踏まえて
歴史もののドラマや映画を見て
製作者を小馬鹿にしてください

 


今日も一日お疲れ様でした

edited by名乗らん at
第四回 松永久秀

中学を卒業して
ギターを買いに行きました

 


モッキンバードというモデルのギターを買いました
持って帰るのが億劫でしたので
家まで送ってもらいました

 

 

数日して家に届きました
母が受け取りました

 


そして私に言いました

 


 

『あんた、ギター買ったんちゃうの?』

 

 

 

箱に宅急便の伝票が貼っていて
そこには

 

 

 


モッキン

 

 

 


と書かれておりました

 

 

 

 

 

かぁちゃん!!
木琴買ったわけじゃないからっ

 

 

 


こんばんわ、名乗らんです

 

 

今回は
松永久秀(まつながひさひで 1510?~1577)

 

 

 


弾正少弼(だんじょうしょうひつ)に任命されたことから
松永弾正と言われたりもしております

 

 

 


松永久秀と聞いて
皆さんはどんなことを思い浮かべるでしょう

 

 

恐らく最も多いのは

 

 

 

悪人

 

 

 

 

この二文字じゃないでしょうか

 

松永久秀は
斎藤道三、宇喜多直家と並んで戦国時代の三大梟雄(きょうゆう)と言われております


梟雄とは
残忍で強く荒々しいこと。また、その人。悪者などの首領にいう。
とあります

 

 

こんなところから
悪人扱いをされているのでしょう

 

 

ゲーム信長の野望でも

 

 


なんか企んどるでーってな悪人顔

 

 


この松永久秀
前半生は不明です

 


はっきりしてくるのは
三好長慶(みよしながよし)に仕え始めた
1540年ごろから

 


30歳前後ですね

 


最初は右筆として仕えました
いわゆる書記官です

 

 

この頃は
弟である松永長頼(まつながながより)が
兄よりもはるかに武勇に優れ
久秀は弟の七光りで三好家に仕えている
そんな言われようでした

 

三好氏は
信濃の小笠原氏が
阿波守護を任命されて
一部が阿波に移り
三好郡の地名から三好を称しました

 


阿波
現在の徳島県
ここから始まり
長慶の時代には
阿波、讃岐、淡路、摂津、河内、和泉などなど
広大な勢力を持っておりました

 

 

そしてなにより
日本の中心である山城は目と鼻の先
そしてそこを治める将軍家は
名ばかりでなんの力もない

 


そんな地理的条件もあり
三好家と松永久秀は
一時期
将軍家を追放して山城も領土に加え
日本を牛耳る勢力となりました

 

 

 

しかし
隆盛を奮っていた三好家に暗雲が立ち込めます

 

 


勢力を拡大する最中
1561年に
長慶の三番目の弟で
三好家最強の武将である
十河一存(そごうかずまさ)が病死

 

 


1562年の久米田の戦いで
長慶の一番上の弟で
知勇兼備の名将と名高い
三好義賢(みよしよしかた)が戦死

 

 


1563年に
長慶の跡取りで長男の
三好義興(みよしよしおき)が病死

 

 


1564年に
長慶の2番目の弟で
穏健で心優しく常に冷静だった
安宅冬康(あたぎふゆやす)が長慶自身の手により殺害

 

 


その2か月後
長慶自身が病死

 

 


ことごとく
これでもかってぐらいことごとく
三好一族がこの世から消えてしまいました

 

 

これらの死に
松永久秀が関与していると当時から噂になっておりました

 

 

 

 

まず十河一存の病死
病死と伝えられてはおりますが
仲の悪かった松永久秀が側にいたことから
久秀による暗殺と言われております

 


または
実際に病気だった十河一存
病気療養のために
有馬温泉に湯治に向かうとき
葦毛の馬に乗る十河一存に

 


『有馬権現は葦毛の馬を嫌うから乗らない方がいい
神罰が下るぞ』


 

と久秀が忠告したけど
十河一存は嫌いな松永久秀の忠告なんぞ無視して葦毛の馬で向かうと
突然馬が暴れだし
落馬して死んだという説

 

 

 

次の三好義賢の戦死は関わっていたという話はありません

 

 

 

次の三好義興の病死

 

 

三好義興は
松永久秀の助けを借りて
山城を支配しておりました

 

 


二人は協力して
山城の治安維持
外敵掃討など行っておりましたが
義興が久秀を危険人物だと見抜いて
それに気づかれた久秀に毒殺されたという噂

 

 

 

長慶は
大事な大事な跡取りを失い
心身に異常をきたしてしまいます

 

 

 

そんな異常状態の長慶に
久秀は
安宅冬康が謀反を企ててると吹き込み
長慶により惨殺させたという噂

 

 

 

さらに病気が末期状態だった長慶の死
これも久秀による暗殺説があります

暗殺じゃなかったにせよ
安宅冬康がまったくの冤罪だったことが斬った後に発覚し
後悔の念から病はさらに悪化したので
直接でなくても間接的には関わっていたことになります

 

 

 

とにかく黒い噂の絶えない松永久秀

 

 


三好家は
十河一存の子で
三好長慶の養子になっていた
三好義継(みよしよしつぐ)があとを継ぎました

 

 

 

しかし
当時義継はまだ10歳
三好家をまとめることなどできません

 


 

そこで
三好長逸(みよしながゆき)
三好政康(みよしまさやす)
石成友通(いわなりともみち)
の世にいう三好三人衆と
松永久秀が共同で義継を後見することになりました

 

 

 

 

 

長慶の死後
これを好機ととらえた
将軍足利義輝(あしかがよしてる)

 

 

 

幕府権力の復活は今しかないと
各地の大名に上洛を促し
力を貸してくれとせっせと手紙を送りました

 

 

 

これに危機感を感じた三人衆と久秀
将軍に牙をむきました

 

 

 

1万の軍勢で二条城を取り囲み
攻撃を開始しました

 

 

 

しかし将軍足利義輝は
剣豪塚原卜伝(つかはらぼくでん)に免許皆伝を受けた剣の達人でした

 

 

 

畳に将軍家に伝わる名刀を何本も突き刺し
迫りくる敵を斬りまくり
斬れなくなったら刀を取り換え
必死の抵抗を見せました

 

 

 

まさしく武士のトップにふさわしい奮戦ぶりです

 

 

 

しかし多勢に無勢
哀れ将軍足利義輝は戦死してしまいました

 

 


この頃までは協力していた三人衆と久秀ですが
久秀の能力、勢力を危険に感じ始めた三人衆は
久秀と縁を切ってしまいます

 

 

 

三人衆には
三好義継
14代将軍足利義栄(あしかがよしひで)
阿波、讃岐の三好軍
大和の筒井順慶などが合流し
圧倒的に優勢になります

 

 

 

この時
三人衆側は
東大寺大仏殿に陣を敷いていました

 

 

 

そんなところで戦ったものだから
大仏殿に火がつき
大仏が焼け落ちてしまいました

 

 

 

実際に火をつけたのは
三人衆の方だというのが本当らしいのですが
久秀が火をつけた
久秀が大仏を燃やしたと
当時から言われておりました

 

 

 

そんな内輪もめを続けてる中
とうとう織田信長が上洛してきます


 

 

久秀と信長は通じ合っていたので
三人衆側は退散
三人衆に擁立されていた将軍足利義栄は病死


 

 

これにより
信長に擁立された足利義昭(あしかがよしあき)が
15代将軍に就任


 

 

久秀は信長に
当時最高の名器と言われていた
九十九髪茄子(つくもなす)を献上し
恭順の意を示します

 

 

 

 

この九十九髪茄子は
三代将軍足利義満(あしかがよしみつ)が持っていて
戦場にも持って行ったと言われるほど愛されておりました

 

 


代々将軍家に伝わり
8代将軍足利義政(あしかがよしまさ)の時に
山名政豊(やまなまさとよ)に与えられ
次に茶人村田珠光(むらたじゅこう)に渡り
その後なんだかんだ転々とし
朝倉家にその人ありと言われた名将朝倉宗滴(あさくらそうてき)に渡り
その後久秀に渡ったそうです

 

 

 

 

誰もが欲しがる大名物です

 

 


信長配下として
大和を次々征服していく久秀

 

 


信長が朝倉攻めの際
妹婿の浅井長政(あざいながまさ)の裏切りにあい
前後を敵に囲まれた時は
越前と京の間にある
朽木谷の朽木元網(くつきもとつな)を久秀が説得して味方につけ
信長の退路を確保することに成功

 

 

 

大いにその類まれなる能力を発揮する久秀ですが
徐々に第一次信長包囲網が形成されると
なんとなくきな臭い態度を見せ始めます

 

 

 

信長包囲網の最高実力者である武田信玄が上洛を開始するにあたって
包囲網の一員として
信長に謀反を企てました

 

 

 

当時の信長は完全に敵対勢力に囲まれており
武田信玄が信長潰しに取り掛かると
どう考えても信長は滅びます
この輪に加わらないことはありません

 

 

 

武田信玄は手始めに
三方ヶ原の戦いで信長と同盟を結んでいた徳川家康を撃破
家康は恐怖のあまり
うんこちゃんをちびりながら城に逃げ帰ったそうです

 

 

この負け戦を

自身への戒めとして

描かせた肖像画

 

 

まいったなーもー

 


さらに兵を進める武田信玄
しかし
ぴたっと動きを止めたかと思いきや
甲府に帰って行ってしまいました

 

 

 

まさかの信玄病死です
信長がヒ素で毒殺した説があります

 


 

信玄あっての信長包囲網
信長包囲網あっての久秀の謀反
肝心の信玄がいなくなってはどうしようもありません

 

 

 

信長軍が久秀の多聞山城に押し寄せます
勝てるわけもないので降伏

 

 

 

 

しばらくはおとなしくしていたのですが
上杉謙信を頼りとする
第二次信長包囲網が形成されます

 

 

 

武田信玄と甲乙つけがたい上杉謙信が上洛してきます
今度こそ
今度こそ包囲網の一員として
信長を滅ぼそうと
またも久秀は謀反します

 

 

 

しかし
上杉謙信は来ませんでした
来れませんでした

 

 

 

またも直前に病死
信長がヒ素で毒殺した説があります

 


 

あぁダメだ
もうダメだ
またも信長軍が押し寄せます
今度は信貴山城です

 

 

 

信長は
久秀所有の天下の名茶釜
古典明平蜘蛛(こてんみょうひらぐも)を差し出せば
許してやろうとけしかけます

 

 

 

しかし
もうさすがに許してもらえない
ってか
この釜だけは絶対にやらん

 

 

 

そんなにこの釜が欲しいか信長!!

欲しいのならば

地獄まで取りに来い!!

 

 

 

久秀はこの釜に爆薬をたっぷり入れて
それを首から下げて
豪快に自爆することにより
釜とともにこの世から文字通り消えました

 

 

 

史上初の爆死による自害

 

 

 

この久秀が爆死した日は
奇妙なことに
10年前に大仏が焼け落ちた日と同じ
10月10日だったそうです

 

 

 

 

なぜか現存古典明平蜘蛛
(浜名湖舘山寺美術博物館所蔵)

 

 

 

 

 

 

これで終わりません
これではこのコーナーで紹介するには足りません

ただの悪人の面しか紹介できていません

 

 

 

久秀を語るには

久秀が築いた

多聞山城を抜きには語れません

 

 


今日では当たり前のように発せられる
多聞櫓といわれる櫓

 

 

 

この櫓は
この多聞山城に作られた
塁上に長屋形状の櫓をさして
多聞櫓と呼んだのが最初です

 

 

 

この後の
近世城郭の先駆けとなる要素がふんだんに盛り込まれ
中世城郭から近世城郭へと移り変わる過程
または
守る城から魅せる城へと移り変わる過程において
非常に重要な城なのです

 

 

 

こんな重要な城が
なぜ100名城に含まれないのか

 

 

恐らく
今は学校の敷地になってるからでしょう

 

 

 

 


多聞山城は絢爛豪華な城でした

 


織田信長は
この多聞山城を完全に破壊しました

 

 

 

そして
多聞山城を参考に
安土城を築いたとさえ言われております

 

 

 

自分の最高の城ができる前に
素晴らしい城ができていたことが我慢できずに
破壊したのかもしれませんね

 

 

この多聞山城と
それ以前に久秀が築いていた信貴山城には
後世の天守の見本となる
絢爛豪華な四階櫓があったそうです

 

 

 

特に多聞山城の四階櫓は
史上初の天守だと言われたりもしております
(伊丹城や楽田城が史上初の説もあり)

 

 

 

 

そんな美にこだわる松永久秀

 

 

 

先述の通り
九十九髪茄子や古典明平蜘蛛など
数々の名器を所持していたことも特筆されます


 

 

当時は
茶の湯絶世の頃

 

 

 

名器を持つ者が優れた人物という扱いを受ける頃です
後に織田信長や豊臣秀吉が名物狩りと称して
様々な名器を集めますが
その走りがまさしく松永久秀

 

 


もちろん持ってるだけでは何もならない

 

 

 

その地理的条件から
茶の湯を通じて堺や京の公家や文化人や商人と親しく接するなど
教養も人並み以上に持ち合わせている

 

 


また
先述の爆死による自害
誰もしたことがない方法で自害

 

 

 

信長が本能寺の変で
炎に包まれながら世を去ったのと同じように
自分という存在を
一切この世に残さない
ある種のひねくれっぷり

 

 

 

悪い噂ばかりが取り上げられる松永久秀ですが
やはり
名将と言わざるを得ない
素晴らしい武将であったと言えます

 

 

 

 

 

最後に

 


信長が家康に久秀を紹介しました

 

『この老人を知ってるか?
こいつは主家を乗っ取り
将軍を殺し
大仏を焼くという
普通なら一つもできない悪事を三つもやり遂げた天下の大悪人
松永久秀である』

 

 

 

こんな言われ方をした久秀ですが
信長も
主筋にあたる織田信友を滅ぼし
将軍を追放し
比叡山を焼打ちするという
ほぼ同じような悪事をしてるんですけどね

 

 

 

 

今日も一日お疲れ様でした

edited by名乗らん at
第三回 鳥居勝商

トップモデル
ナオミ・キャンベルさん

 

 

 


 

 

 

 

トップモデル
富永愛さん

 

 

 

 

 

 

 

モデルって
ブサイクでもなれるんですね

 

 


こんばんわ、名乗らんです

 

 

今回取り上げますのは
鳥居勝商(とりいかつあき)

 

 

 

武士でありながら
商売の商を名前にあしらっている
珍しいお方

 

 

この商の文字は
鳥居一族の通字です

 

 

 

戦国武将で『鳥居』を苗字に持つ人とくると

徳川家康の家臣で
関ヶ原の戦いの前哨戦である
伏見城の戦いで
西軍を挙兵させるために囮となり
華々しく散った忠義の男
鳥居元忠を思い浮かべるかもしれません

 

 

 

この鳥居元忠と
鳥居勝商は苗字は同じで
共に徳川家に仕えたという共通点はありますが
恐らくまったく血縁のない間柄

 

 

 

堂本剛と堂本光一みたいなもんです


愛されるよりも愛したいマジで

 


 

 

さて
この鳥居勝商

 

 


この名前ではピンとこない方でも
鳥居強右衛門(とりいすねえもん)
という通称なら
ピンとくる方も多少はおられるでしょう

 

 


または
この画像でピンと来るかな?

 

 

 

 

*wikipediaより

 

 

 


そうですこの男のことです

 

 


しかしまぁなんですね
商をあしらった名前も珍しいですが
強右衛門ってのもいかにもたくましい感じですね
荒武者って感じですね

 

 

 

しかしそんな強右衛門
実は
たった一日のこと以外は
ほとんど知られていません

 

 


と言いますのも
この強右衛門

 

 


徳川家康の家臣
長篠城城主
奥平貞昌に仕える
単なる雑兵です

 

 


奥平氏は
元々は武田家の家臣

 


しかし
武田信玄が病死し
武田勝頼が後を継ぐと
徳川家康に鞍替えしました

 


これに怒った武田勝頼

 


徳川家康から長篠城を任せられた奥平家に
攻撃を仕掛けんと攻めかかってきました

 

 


長篠城を守る奥平軍は500人
それを取り囲む武田軍は15,000人
まさかの30倍の大軍で囲まれてしまいました

 

 


しかし
長篠城は
私も現地を見てまいりましたが
険しい山々と
たくさんの川で囲まれており
どうにかこうにか
武田軍の猛攻を防いでおりました

 

 

 

しかし
武田軍が放った火矢が
兵糧庫に突き刺さり
兵糧が全焼してしまいました


 

 

腹が減っては戦ができぬの言葉通り
一気に落城の危機に立たされてしまいました


 

 

焦る奥平軍
このまま城に籠っていては
飢え死にするしかない


 

 

かと言って
城を出て戦おうにも
相手は30倍の大軍
話にならない

 

 


やむを得ない
岡崎城の殿に援軍を送ってもらおう

 

 

 

籠城戦で勝利する方法は
そう多くはありません


 

 

敵の兵糧が尽きるまでねばる

 

敵が飽きるまでねばる

 

敵の本拠地が攻撃されるまでねばる

 

援軍を送ってもらって敵の背後から攻撃してもらい
それに呼応して城内から打って出て
敵を挟み撃ちにしてせん滅する


 

 

などなど


 

 

 

現実的に一番可能なのが
最後の援軍作戦

 

 

 

奥平軍は
この援軍作戦に勝負を賭けました

 

 

 

しかし
長篠城は
15,000人の
大軍に囲まれています

 

 


この囲みを抜け出して
岡崎城までひたすら走る
走って走って走りまくる

 

 

 

 

ほぼ不可能です
城はすべて
武田軍の視線レーダーが囲んでいます


 

 

このレーダーに触れたら最後
作戦は失敗
一気に攻められるでしょう

 

 

 

 

誰を援軍要請の使者に送ろうか

 

 

 

 

これに一人の男が名乗り出ました

 


 

 

鳥居強右衛門です

 

 

 

 

このとき強右衛門は36歳だったそうです

 


これまでまったく目立った働きをしたことのない
一人の雑兵


 

 

城主奥平貞昌は
この勇敢な男を見て

 

 

 

ん?え?なに?あんただれ?

 

 

 

って思ったかもしれません

 

 

 

 

『それがし泳ぎには少々自信があります
この城を囲む川の流れに身を隠し
見事脱出してみせましょう』

 

 

 

 

この名前も知らない一人の雑兵からの申し出
しかしこの際
身分がどうこうなどとは言ってられない
元より適任者なんて一人もいないんです

 

 

 

こいつに賭けてみよう

 


 

 

 

鳥居強右衛門は
夜中に
下水溝から城を出て
川に潜り
武田軍の囲みの外側を目指しました

 

 

 

武田軍は気づいていないようです

 

 

 

 

完全に囲みを脱出し
かねてからの手はず通りに
城から見える山から
のろしを上げました

 

 

 


脱出成功のサインです

 

 

 

そののろしを見た奥平軍
俄然テンションが上がり
歓声の声をあげました

 

 

 

武田軍は


 

『ん??なんか城内が喜んでますね
どうしたんでしょうね』


『あ!なんかあっこからのろしが上がってますよ』


『のろしが上がって喜んでる

ん~・・・

警戒を強めさせましょう』

 

 

 

そんな武田軍の動静など露知らず
鳥居強右衛門は
ひたすら岡崎城を目指します

 

 

 

 

NAVITIMEで調べますれば
その距離は48.6Km
ひたすら走ります

 

 

 

さぁ
無事岡崎城に到着しました

 

 

 

『それがし長篠城城主奥平貞昌に仕える
鳥居強右衛門と申す者!!
急ぎ岡崎の大殿にお伝えしたきことありて参った!!
開門!!かいもーーーん!!』

 

 

 

城内へ通された強右衛門が見たのは

主君徳川家康はもちろんのこと
盟友織田信長の姿がそこにあるではありませんか!!

 

 

 

 

織田信長は強右衛門に語ります

 

『強右衛門とやら、よくぞ武田の囲みを突破してきたな
あっぱれな武者振りよ
実はな、三河殿から援軍要請の使者が来てな
3万の兵とともにさっき岡崎に着いたところなのじゃ
すぐにでも三河殿の兵と合わせて
3万8000の兵とともに長篠へ駆けつけよう』

 

 

 

 

さん・・・・・

 

 

 

 

まん・・・・・・・

 

 

 

 

 

 

はっ・・・・・・・・・・・・

 

 

 


 

 

 

 

 

せん・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 


 

 

 

このときの強右衛門の気持ちを推し量ると
思わず目頭が熱くなるのを禁じ得ない私であります

 

 

 

 

『今日は疲れたであろう
1日岡崎でゆっくりして
明日にでも我らと一緒に長篠へ向かおう』

 

 

 

『恐れながら
長篠の殿や仲間たちは
私の知らせを首を長くして待っております
今すぐにでも長篠へ取って返したく思います』

 


 

こう言って強右衛門は
岡崎城を後にしました

 

 

 

 

 

 

長篠城の近くまで戻った強右衛門
これまたかねてからの手はず通り
のろしを上げます

 

 

 


今度は
援軍要請成功を知らせるのろしです

 

 

 

 

のろしを見た長篠城は
これまた大歓声

 

 

 

 

 

それを見た武田軍

 

 


『またのろしが上がって城方が喜んでる・・・
あたりを徹底的に探せ!!』

 

 

 


哀れ強右衛門
武田軍の警戒網に引っ掛かり
捕まってしまいました

 

 

 

 

武田軍の尋問が始まりました

 

おまえは何者だ
何をしておった
のろしを上げたのはお前か
のろしを見た城の者どもは何を喜んでいるんだ

 

 

 

死を悟った強右衛門は
すべてを話しました

 

 

 

 

 

焦る武田軍
恐らく嘘偽りではないだろう
38,000の織田徳川連合軍が来る
援軍に備えるか
一気に城を落とすか

 

 

 

 

待てよ・・・

 

『強右衛門とやら
城に向かって援軍は来ないと叫べ!!
早く城を明け渡すように叫べ!!

 

そうすればおまえの命は助けてやるし
武田家の家臣として雇ってやろう』

 

 

 

 

 


『え?マジっすか?絶対っすよ?マジ絶対っすよ?』

 

 

 

 

 


長篠城から見えるところに引き立てられた強右衛門
城に向かって叫びました

 

 

 

 

 

 


『もうすぐそこにまで織田殿と岡崎殿の援軍が迫っておる!!
もう少しの辛抱だっ!!』

 

 

 

 

 

 

 

激おこぷんぷん丸の武田勝頼

 

 

 


強右衛門は磔(はりつけ)にさせられ
両脇から槍を突き刺され
絶命しました

 

 

 

 


強右衛門の命を賭しての働きに
長篠城は勇気づき
武田軍の攻撃を防ぎ切り
鉄砲三段撃ちで有名な
長篠の戦いへと繋がり
武田軍は壊滅的ダメージを負うのでした

 

 

 

 


この強右衛門の姿に感動したのは
何も長篠城の面々だけではありませんでした

 

 

 

 

武田家家臣
落合左平次(おちあいさへいじ)

 

 

彼は
磔にされた強右衛門の姿を絵に残して
自身の旗差物に使ったのです


つまり
磔にされた強右衛門の姿が描かれた旗を背中から立てて
戦場を走りまわるようにしたのです

 

 

 

この勇者にあやかりたい

 

 

 

 

その旗差物こそが
まさしく
冒頭に紹介した真っ赤な体で磔されている絵なのです

 

 

 

 

 


これまでの歴史に
綺羅星のごとく輝いては消えていった英雄たち

 

 

たった1日の働きで
無名の雑兵から
英雄の輪の中に
仲間入りした鳥居強右衛門

 

 

 

たった1日の働きが
400年以上も語り継がれ
そして恐らく
これからも永遠に語り継がれる

 


まさに漢の中の漢
これぞ日本男児

 

 

日本に男として生まれた以上
かくありたいものですね

 

 

 

日本100名城巡りの一環で
長篠城を訪れた際は
是非とも
愛知県新城市に残る
強右衛門の足跡を巡ってください

 


今日も一日お疲れ様でした

edited by名乗らん at
第二回 竜造寺家兼

じょしつきと打ち込んで
変換を押すと
女子月
と一発目に変換されるパソコンは
買い替えなさい


こんばんわ、名乗らんです

 

今回ご紹介するのは

龍造寺家兼(1454~1546)

 

 

画像は見つかりませんでした

 

 

この人物の初めて知った時は
なんちゅう執念や

少なからず衝撃を受けました

 


龍造寺氏は
藤原道隆の子孫とされる
高木季綱の二男である高木季家が
肥前国小津郡龍造寺の地頭となり
地名をとって姓としたところから始まります


後に数家に分かれましたが
主だった家は
本家である村中龍造寺と
分家である水ヶ江龍造寺の二家


この水ヶ江龍造寺の初代が
今回の龍造寺家兼です


家兼の時代の龍造寺氏は
少弐氏の家臣にすぎませんでした


このころの本家村中龍造寺は
内部分裂や
当主の早死になどで
ずいぶんと勢力が弱まっておりました


そんな中
周防、長門、筑前などを治める
大内義隆が
少弐領に攻め込んでまいりました


その戦いに
龍造寺家兼と息子たちは
大活躍し
見事
大内軍を敗走させました


本家当主龍造寺胤久は
この家兼の活躍ぶりを見て
本家当主の座を
龍造寺家兼に譲り隠居しました


敗れた大内義隆は
敵ながら天晴な龍造寺家兼に
少弐氏から離れてうちにこないかと
誘いをかけてきました


このころの龍造寺氏は少弐氏の家臣ですが
元々は
少弐氏に滅ぼされた千葉氏の家臣でした


いわば外様


心を動かされた龍造寺家兼は
大内義隆が改めて攻めてきたとき
積極的に防戦しませんでした


その結果
主君である少弐資元は戦死


これに多いに怒ったのが
少弐氏家臣の馬場頼周


龍造寺が防戦しなかったから
主君は死んだんだ!!
あいつは主殺しだ!!


馬場頼周は
思いを同じくする少弐氏家臣を集めて
龍造寺家兼に攻めかかります


余りに多勢に無勢
家兼はかろうじて筑後へ脱出したのですが
二人の息子
龍造寺家純と龍造寺家門を始め

龍造寺家純の息子の
龍造寺周家、龍造寺純家、龍造寺頼純

龍造寺家門の息子の
龍造寺家泰
これら一族がことごとく殺されるという
私なら首を吊りたくなるような悲劇に襲われてしまいます

 


家兼――家純――周家――隆信
  |   |_純家
  |   |_頼純
  |_家門_家泰   死亡  

 

 

しかし
龍造寺家兼は
へこたれませんでした


この事件が起きた時

竜造寺家兼は
すでに92歳だったのですが
龍造寺家兼は
へこたれませんでした


筑後に逃れた龍造寺家兼は
筑後柳川城主である
蒲池鑑盛の元に落ち着きました


諦めねぇ
絶対に馬場頼周を許さねぇ
あいつをぶっ殺して
龍造寺は復活するんだ


平成25年の現代でも
92歳といえばかなりのご長寿です


今より平均年齢が格段に低い戦国時代
医療技術など格段に低い戦国時代
そんな頃の92歳
もはや化け物的な年齢です


そんなよぼよぼの龍造寺家兼に
復讐の炎がめらめらと熱く燃えたぎっておりました


翌年
家臣である鍋島清房らとともに
蒲池氏の支援のもと
老体を奮い立たせて挙兵


挙兵すること自体すでにすごい


そして
見事
馬場頼周を討ち取ることに成功し
本拠である
水ヶ江城に凱旋することができました


まさしく執念!!


城に戻った家兼は
ひ孫であり当時17歳だった龍造寺隆信を
『あいつは大器だ
あいつが龍造寺を飛躍させるであろう
今は僧になってるけど武士に戻して
龍造寺を継がせるように』


と言い残して
馬場頼周を討ち
龍造寺を復活させたその年に
93年の
波乱に満ちまくった生涯を閉じました


後の龍造寺氏は
家兼の見込み通り
龍造寺隆信の元
九州を三分するほどの勢力を築きあげました

 

 

今日も一日お疲れ様でした

edited by名乗らん at
第一回 島津忠良

仕事中に何気なく口ずさんでしまう曲


かーえーろーか もう帰ろうよ(クリスハート)

 

 

こんばんわ、名乗らんです

 

本コーナーでは

さまざまな城を築き

さまざまな城を舞台に戦い

さまざまなドラマを作り上げてきた

名将たちをご紹介


特に

そんな人聞いたこともない

とか

名前ぐらいは聞いたことあるけどよう知らん

といった具合の人物を取り上げようと思っております。

 

記念すべき第一回は


島津忠良(島津日新斎)(1492~1568)

 

 

 

『島津に暗君なし』

この言葉の礎を築いたのが

島津忠良

 

島津忠良のことを語るには

まずは

島津家の歴史を語らねばなるまい

 

島津家は
惟宗忠康の子である忠久が
源頼朝より
大隅国・薩摩国・日向国の守護職を任じられ
日向国島津荘の地名を名字としたところから始まります


島津=薩摩というイメージが強いのですが
実際には
越前、信濃、若狭、近江、播磨など
島津忠久の子孫は
色んな所に散らばり
それぞれに根を張っておりました


大隅、薩摩、日向にも
たくさんの分家を興しており
それぞれの地域を治めておりました


鎌倉時代、室町時代初期の島津家は
そういった分家同士の争いが絶えない家でした


そんな数ある分家の一つ
伊作島津家の9代当主
島津善久の長男として
島津忠良は生まれました


伊作家は
島津宗家3代当主である島津久経の次男である
島津久長に始まり
代々
薩摩国の伊作荘を治めておりました

 

 


島津忠良が生まれてからすぐに
伊作家は
悲劇に包まれました


父である島津善久が
何がどうなってそうなったのかはわかりませんが
馬の世話係に撲殺されるという事件が起こりました

島津善久はまだ27歳という若さでした


忠良はまだ2歳だったこともあり
当時健在だった
8代当主島津久逸が跡を継ぎました


しかしその島津久逸も
その6年後に一族同士の争いに巻き込まれ
戦死してしまいます


後に残ったのは
幼い忠良と
その母、常盤


伊作家は
やむなく
常盤が治めることになりました


しかし
なんといっても男社会の戦国時代
女性が治める伊作家は
周辺の攻撃にさらされてしまいます


そんな中常盤は
同じく島津分家の
相州家当主の
島津運久に加勢を頼み
島津運久もこれに応じ兵を出してくれたので
なんとか家を保っておりました


その間
島津忠良は
15歳まで
近くのお寺で
教育を受け続けておりました

この教育が

名君島津忠良を作り上げたのです

 

 


たびたび伊作家に応援を出していた島津運久
次第に
若い未亡人である常盤に惚れてしまい
求婚を申し出ます


これに対して常盤
『息子忠良を運久の養子として、伊作家と相州家の両方を相続させてくれるなら結婚しましょう』

なんともしたたかな条件を提示してまいりました


しかし運久はこれを快諾
忠良は19歳で伊作家を相続し
21歳で相州家も相続しました


元服した忠良は
禅の修行に励み
人道を守り
善政を敷いたので
その人物ぶりは周辺に鳴り響くほどの
傑物となりました

 

 


一方その頃の島津本家
11代当主忠昌の死後
忠昌の長男12代忠治
忠昌の次男13代忠隆が
相次いで急死し
忠昌の三男の勝久が14代当主となっておりました(当時の名前は忠兼)


そんな混乱期の島津本家
領内を治める力がありませんでした


そこで勝久は
分家の薩州家当主の島津実久の助けを借りて
勢力挽回にいそしんでおりました


しかしこの島津実久
なんともあくどい人物で
『島津本家が生き永らえてるのは俺のおかげやな

もうあかん

俺に任しとけ

俺が島津本家を継ぐわ』
などとしゃしゃり出てまいりました


これに困った本家当主の島津勝久
もうこいつに頼るのはやめようと思い始めます


次に協力を求めたのが
英明の誉れ高い
我らが島津忠良


島津忠良は条件を出します
『わしの長男の貴久を勝久殿の養子として

後々は島津本家を継がせてくれるならお手伝いしましょう』


ここらへんは
あくどい実久と言ってることはあまり変わらないのですが
そこは島津忠良の仁徳
本家当主勝久は承諾します


島津貴久は
わずか12歳で
島津本家の当主となりました


もちろん
父島津忠良が後見しており
実質統治するのは
島津忠良


島津忠良の治世としては
琉球を通じた対明貿易
鉄砲の大量購入
家臣団の育成
万之瀬川に橋を掛け
麓と呼ばれる城下町を整備
養蚕などの産業を興す等々の
多くの仁政を敷いたことにあります


また
独自の教育論を
『いろは歌』
にまとめ
子の貴久、忠将、尚久の三兄弟
孫の義久、義弘、歳久、家久の四兄弟を
徹底的に教育しました


後にこの『いろは歌』は
薩摩武士の士風と文化の基盤を築き
薩摩藩士の教育の基本となり
現代にいたるまで深い影響を残しています


この『いろは歌』をベースにした教育ゆえ
『島津に暗君なし』
この言葉が生まれたものと思われます


また
幕末日本
一方の主役であった
薩摩藩


その薩摩藩の
島津斉彬、西郷隆盛、大久保利通
これらの英雄も
当然
『いろは歌』教育は受けていたでしょう
また
『いろは歌』教育を受けたからこそ
英雄になり得て
幕末ドラマを彩ったのでしょう


まさしく
島津忠良一人の存在が
後の歴史の基礎となっているのですね


島津忠良は
徳川家康が東照大権現として神となったのと同様に
死後
日新偉霊彦命として
神として後々の世まで愛され続けました


最後に
『いろは歌』の内容紹介しているサイトをご案内します


ため息の出るような
素晴らしい言葉の数々
ぜひ
一読いただき
今後の人生の道しるべとしていただきたく思います


http://homer.pro.tok2.com/sub12-5(irohauta).htm

 


今日も一日お疲れ様でした

edited by名乗らん at